五感の想い

  1. ホーム
  2. 五感の想い

日本の農業を活かし、日本人の心に響く洋菓子をつくる

日本人にとって、毎日食べるお米はかけがえのないものです。
「米」という文字は、収穫までに「八十八」もの手間をかけるからだといわれるように、農家さんが手塩にかけて育てたものです。
「米一粒でも残すな。食べ物を粗末にするな」
と、昔から親は子を厳しく躾けてきました。そこに込められた、人や自然への感謝と食べ物を大切にするという心は、時代が変わっても忘れてはならないことです。

「お世話になった方への恩を忘れるな」
人の縁を大切に、出会いに感謝し、そのご恩に報いるためにも、五感はできうる限りお菓子づくりで社会に貢献したいと考えています。

日本の作物の優れた品質や安全性は、技術力に加えて作物への深い愛情によって支えられています。五感もまた、「美味しくて喜ばれるお菓子をつくろう」と日々努力をしています。同じ時代を生きる農業に携わる人々とともに、自然の恵みを活かし、「日本人の心に響くお菓子」を心を込めてつくります。

五感・北浜・中之島・淀屋橋の歴史

江戸時代、大坂は「天下の台所」と呼ばれる日本の物流の要であり、文字通り日本一の商業都市でした。千石船によって日本各地から米を中心とする貨物が運びこまれ、江戸をはじめとする諸国に流通したのです。
河川や水路が整えられて水運が栄え、川縁には諸藩の「蔵屋敷」や年貢米を蓄えるための「米蔵」が建てられました。

当時、大坂で繁栄を極めた豪商「淀屋重當(号を个庵(こうあん))」が北浜の店先に開いた米市が全国の米相場の基準となり、商都大坂の発展に大きく寄与しました。
北浜から中之島に渡るために土佐堀川に淀屋が自費で架けた橋が「淀屋橋」です。
淀屋は、この中之島に米市を開き、集まった米を貯蔵するための蔵屋敷が百三十五棟も建ち並んでいたと言われています。

大名たちは、納められた米を蔵元の商人たちを介して販売するようになり、蔵屋敷では競争によって値をつける入札が行われていました。落札者に米切手と呼ばれる手形を発行し、代金の決済が行われると米が入手できるという取引形態です。
17世紀末、米市場が堂島に移転する頃には、投機目的の売買もあり世界で最初の先物取引きが行われたのです。

日本全国からあらゆる食材が集まる「天下の台所」大坂は、独特の食文化が広まり、今日に至っています。
また、長崎に来航する唐船やオランダ船によって輸入された砂糖も、船で大坂に運ばれ、唐薬種問屋、砂糖荒物仲買仲間を経て諸国に流通しました。
良質の砂糖がいち早く入手できた大坂で、実はお菓子文化も大きく発展したのです。

五感がある北浜は、歴史的にみてもお米と砂糖に縁のある地です。
洋菓子というジャンルに、日本人の主食であるお米を取り入れた大阪発のブランドとして、五感はこのまちから「日本人の心に響く洋菓子」をつくり続けます。

↑